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開港記念行事

顕彰者一覧(砲術)

薬師寺宇右衛門

やくしじ うえもん(生年不詳~1688)

薬師寺宇右衛門(名種永)は、豊後国(大分県)の大友氏の砲術役薬師寺久左衛門の長男として生まれる。大友氏の滅亡後に長崎に移住、島原天草一揆に従軍、軍功を揚げた。万治元年(1658)家督相続、磨屋町乙名になり、さらには鍛錬流砲術を改良、自覚流と改称した。寛文5年(1665)常行司に任じられ、石火矢鉄砲預を兼ねた。宇右衛門の跡は、三男又三郎が常行司(後に町年寄に昇格)を、次男又次郎が自覚流砲術をそれぞれ相続世襲、幕末維新に至った。墓は晧台寺(寺町)の薬師寺家墓地にある。

坂本孫八

さかもと まごはち(1745~1803)

坂本孫八(名俊豈、号天山)は、高遠藩(長野県伊那市)藩士坂本運四郎の子として生まれる。父運四郎について荻野流砲術を学び、23歳のとき大坂(大阪市)の荻野流宗家において皆伝免許を受けた。帰藩後の安永7年(1778)旋回俯仰が自在にできる大砲の砲架を発明、周発台と名付けた。享和元年(1801)町年寄高島四郎兵衛など長崎の地役人や大村藩、平戸藩などの藩士に砲術を指導したが、平戸藩蔵屋敷(大黒町)で病没した。墓は晧台寺(寺町)にある。

大木藤十郎

おおき とうじゅうろう(1785~1873)

大木藤十郎(名忠貞、号野鶴)は、船番大木甚之右衛門の次男として生まれる。大木家は、船番の家柄で、藤十郎も船番、さらには御役所附船番触頭を60年以上も勤めた。坂本孫八に荻野流砲術を、高島秋帆に洋式砲術を学び、以後、高島流砲術の普及に尽力、かたわら多くの門人を指導した。蒸気船運用法や反射炉使用法などをオランダの軍人から修得した。安政元年(1854)佐賀藩に招かれると、航海術を指導、長崎港内外の砲台の造成などについて進言を行った。著書に『砲術捷径(しょうけい)秘録』などがある。墓は大音寺(鍛冶屋町)の大木家墓地にある。

高島四郎太夫

たかしま しろうだゆう(1798~1866)

高島四郎太夫(名茂敦、通称喜平、号秋帆)は、町年寄高島四郎兵衛茂紀の三男として生まれる。洋式砲術について研究開発を行い、高島流砲術を確立した。天保12年(1841)徳丸ヶ原(東京都板橋区)で演習を行い、結果、高島流砲術は幕府に採用された。天保13年(1842)謀反の嫌疑で江戸に護送され、過酷な取調を受けたが、弘化3年(1846)岡部藩(埼玉県本庄市)預(中追放)となった。嘉永6年(1853)ペリーの艦隊が来航するなど、海防が急務となると、その実力を再評価され、同年、約11年振りに釈放された。以後、御普請役、さらには講武所砲術師範役などに任じられた。墓は大円寺(東京区文京区)にあり(都指定史跡)、晧台寺(寺町)の高島家墓地には遺髪が納められている(市指定史跡)。

中島名左衛門

なかじま なざえもん(1817~63)

中島名左衛門(名喜勝、号松堂)は、島原藩領守山村(長崎県雲仙市)庄屋中村正令の三男として生まれ、その後、中島名左衛門の養子になった。高島秋帆に洋式砲術を学び、安政6年(1859)には萩藩(山口県)に招かれ洋式砲術を藩士に指導した。文久3年(1863)には攘夷に備えて馬関(山口県下関市)に砲台を築造、同年、外国船を砲撃した。その直後、大砲の不備を指摘したことで主戦派藩士に襲撃され死没した。墓は正覚寺(東小島町)にある。